君よ 忘れない
夏。 日差しが強い。 湿った風は、だが心地よい。 抜けるような青空の下、少女とも女性ともつかない女が一人、自転車をこいでいた。 海沿いの道。しかし海は、海上自衛隊の基地により、隠されて見えない。大きな入道雲が、遠くの空からにょっきり顔を出していた。 ――そういえば…… と、幸寺奈津は思い出した。 ――こないだ、父さんが…… 大学の夏季休業が始まり、奈津は実家のある京都府舞鶴市に帰ってきていた。 「あ、お帰り父さん。どないよ、その顔」 苦い顔をした父を迎え、奈津はたずねた。海上保安庁に勤める父は、無線が廃止された今も、無線通信士として働いている。不真面目とも真面目ともつかぬ父を、奈津は面白い人間として認識していた。 「ただいま。……別に、……何もない」 いつもならここでにやっと笑う父だが、今日は違った。 「何もないて顔、してへんで」 隠し事をされた苛立ちを隠さず、奈津は言った。 「何でもない。……何でもないんや」 半ば自分に言い聞かせるかのような言葉に、奈津は母と顔を見合わせた。無理に聞き出すこともない。そのうち、話してくれるだろう。 奈津は、なぜこの出来事を、今、この場で思い出したのか分からなかった。山と海に囲まれた静かな街で、これから起こる出来事など、この街の誰も知らない。知らないからこそ、奈津は通ったのだ、この場所を。 頬に当たる風が、とても気持ち良かった。空は今日も青く、海は今日も静かだった。あんなに大きな入道雲。そうだな、四時くらいには夕立が来るだろう。奈津はそんなことを考えながら、海上自衛隊の基地の側を通り過ぎようとしていた。 ふいに、轟音が響いた。自衛隊の基地とは反対側の歩道を走っていた奈津だったが、この音に驚いて、気がつけば道に座り込んでいた。 「……痛」 左の膝に、血がにじんでいる。カラカラと自転車のタイヤが空を走っている。 「何なんよ、今の音は……」 呆然と奈津はつぶやく。国道を挟んだ向こう、彼女は自衛隊基地を眺めやった。道を行く自動車たちも、今の音は何だと停車している。基地からは、もうもうと黒煙が立ち上っている。火は見えない。 ややあって、白地に色々な国旗をあしらった塀を、乗り越えてくる者があった。自衛隊さんや。何があったんやろ。何で、塀乗り越えてくるんやろ。ぼんやりと考えていた奈津だが、次の瞬間には何も考えられなくなっていた。 塀を乗り越えてきた自衛隊員は、あろうことか、道路へと、躊躇いもなく歩いてきたのだ。クラクションが鳴り響く。トラック運転手の怒号が、恐怖を伴うものへと変わる。 「ひ……」 グチィッという音とともに、トラック運転手の首がちぎれた。道を行くものすべてが凍りついた。赤い紅い液体が、青い空に舞う。自衛隊員の服をまとったそれは、貪るように、さっきまでトラックを運転していた者に食いついた。いつの間にか、塀を乗り越えて出てきた者が道路にあふれ出てきていた。運転手の首は、「どうして」とでも言いたそうに、目を見開き、口を全開にして、奈津の方を見ていた。 奈津は訳の分からないままに、倒れた自転車を起こし、またがり、その場を離れた。 夢や。たまに、あんなスプラッタな夢、見るやんか。 必死で自分に思い込ませ、ようやっと、奈津は家にたどり着いた。 「お帰り。何や、早いやんか。もっと遅なる思たのに。どないしたん?」 「何もないで。あ、麦茶あるっけ。暑うてかなんわ」 いつもどおりの母を尻目に、冷蔵庫を開け、奈津は冷たい麦茶を胃に流し込んだ。咽喉をすべり落ちる冷ややかな感触。しだいに奈津は冷静さを取り戻してきた。それと同時に、さきほどの出来事が夢ではないという実感も、沸き起こっていた。 コップを流しに置くと、奈津は首を横に振った。ライトノベルの読みすぎ。あんなん、小説とか、漫画とかにしかあらへん。夢でも見とってんよ。寝ながら自転車こぐんは、得意や。 そう思うと、いくぶん気分が楽になり、奈津は、寝るからと自室に入った。 「……ん」 どれくらい眠っただろうか。まだ眠り足りない体を起こし、奈津は布団の上に座った。昼間の予想通り夕立でも来たのだろうか、気温は低い。外はもう暗くなっている。それなのに……。 「何で虫、鳴いてへんのやろ」 あくびを一つして、奈津は居間へと歩いた。 「今、何時? ちょっと寝すぎた?」 目をこすりながら、奈津はそこにいた両親に話しかけた。 「……どないしたんよ」 顔を洗い、タオルを片手に奈津は、いつもと空気の違うことを感じた。 黄昏時だというのに、部屋に明かりは灯されていない。五人家族だった名残の大きな飯台に向かって、奈津の両親は座っていた。 「なあ、どないしたんよ」 虫の声は、まだ聞こえない。 「なあって!」 「……分からん」 重々しく父が口を開く。母が、微かに震えているのが分かる。 「電気、つけるで?」 奈津は電気のヒモを引いた。ぱちぱちと軽く音を立てて、部屋は明るくなった。 「……」 沈黙が続く。隣家には、お孫さんが来ていたはず。声が聞こえないなんて、おかしい。この時間なら、すぐ前にある親戚の家からも声が聞こえていたはず。祖母が、庭にある小さな畑に水をやりに出てくるのも、この時間帯のはず。外の、井戸が直結した水道ポンプのモーター音すらしない。 「父さんな、今日、八島行ったんやけど……」 沈黙を破り、父がぽつぽつと話し始めた。 「誰もおらへんのや。せやけど、生臭い臭いしてな」 母が、びくりと身を震わせると、そのまま止まってしまった。 「変や思て店覗いたら、ぐちゃぐちゃ音してな。そのまま怖なって帰ってきたんや」 八島とは、舞鶴市の東地区にある比較的大きな商店街のある通りである。数年前にショッピングセンターができ、かつての賑わいも鳴りをひそめていたが、誰もいないとまでは、いかない。 「……昼間な、中舞鶴の方チャリこいどったんやけど、自衛隊基地の辺で、ドオンとかいうでっかい音してな。しばらくしたら、自衛隊さんが塀乗り越えて道路出てきて、トラックの運ちゃんの首、ちぎっとった」 奈津の言葉に、父が顔を上げる。 「自衛隊……基地……?」 「うん。自衛隊さんとこ。自衛隊さんなんか、見たら分かるやん? その制服着た人が、……」 奈津は昼間見たものを思い出し、夢でなかったことを再確認させられ、口元を覆った。 「こないだ」 父が口を開いた。 「アメリカの船が入ってきたんや」 奈津が顔を上げる。 「積荷聞いたら、『小麦粉』て言うんやわ。ずっとそう言うし、こっち調べさしてもらえへんし、しゃあないから入港拒否しようとしたんやけど……」 父が言葉を濁す。 「電話、かかってきてな、国土交通省の方から。『入港させろ』言うて」 「『小麦粉』……」 奈津は口の中で反芻する。 「結局、国には逆らえへんさかい、自衛隊基地の方に入れたんやけど……」 自衛隊基地に入れろって言われたしと、父は付け加えた。 奈津の背筋に、嫌な汗が流れる。 「小麦粉て……、覚せい剤とちゃうねんから……」 頭の中では、昼間見たものと、おそらく『小麦粉』の正体であろうものとが交互に浮かび上がってくる。青いのを通り越して、土気色した自衛隊さん。トラックの運転手を食いちぎったときの顔。あれは、絶対、 「ゾンビ……」 「ゾンビ?」 父が聞き返す。 「その『小麦粉』とかいうん、あれ、ゾンビパウダーや」 奈津はもう、二度と元の生活に戻れないことを自覚しつつあった。 「アメリカが持ってきたんは、ゾンビパウダーやろ。それが正しい名称かどうかは知らんけどさ。んで、舞鶴は山にも海にも囲まれとる。ちょっとした都市やけど、別にそんな大した都市やないし。隔離されたも同然の市や。西地区と中地区と東地区に分かれとるけど……実験には、もって来いやない……?」 冷や汗にまみれた顔を、無理やりに笑わせる。硬直した表情筋が、少し軋んだ。 「窓……」 それまでずっと硬直していた母が、突然立ち上がった。 「窓、全部閉めよ。…………寒いわ……」 ふらふらと、奥の部屋へと足を運ぶ。奈津もそれについて行った。ふらつく母を、見ていられなかった。二人が奥へ消えた後すぐ、外から声がした。父がびくりと体を縮め、その声を注意深く聞いた。 「父さん、父さん」 聞いたことのある声だった。窓ガラス越しに外を見る。そこには、彼の息子が立っていた。 「どうしたんや、こんな時間に」 安堵の吐息をつき、父は息子を迎えるために玄関から外に出た。彼も、この非日常から逃れたかったのだろう。それでも、玄関の鍵をかけることだけは、忘れなかった。 「父さん?」 家中の窓をすべて施錠し、母と奈津は居間へと戻ってきた。居間の窓も、すべて閉まっている。父の姿はない。 「母さん、奈津」 外から声がした。 「兄ちゃん?」 奈津がつぶやく。母は座り込んだまま立ち上がろうともしない。彼女の腕をしっかりと握ったまま、奈津は考えた。父がいない。兄がいる。父は今日、仕事が休みだから、家にいることくらい兄も知っている。なのに、なぜ兄は、父でなく、母、ましてや、妹の名までを呼ぶのか。奈津は、決して兄と仲の悪いわけではない。しかし兄とはそうめったなことでは話さない。ひどく業務的な内容のみの会話しかしない。彼は、名指しで妹を呼ぶことなど、ない。 奈津は、ぎゅっと母の腕にしがみついた。母も、強く娘を抱きしめた。 玄関の戸を、強くたたく音がする。 「母さん! 奈津!」 だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! 「母さんん!! 奈津ぅぅ!!」 だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だん! だんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだん 何があったのだろう。父さんはどこへ消えた? 奈津は必死で考えた。考えることで、己の理性を留めようとしていた。 だんだんだんだんだんだんだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ 「母……さ・ん!! 奈・津ぅ……う!!」 声も掠れ、もはや何を叫んでいるのか分からない。玄関の戸が、壊れそうなほどに殴打される。母子二人は、抱き合うことで精一杯だった。噛み合わない歯を、必死で噛み合わせようとする。すればするほど、ガチガチと噛み合わない。 だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ 奈津は発狂するかと思った。発狂しそうな自分を、冷静に見ている自分に気づいて、毒づきたくなった。母も自分も、震えていることに気づかないほど、震えていた。 だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ 狂おしいほどに呼ばれ、一時はその声に導かれようともした。そのたびに、自分にしがみついている者を思い出し、踏みとどまった。 だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ 時間はない。玄関も、もう耐えられるところにはない。意を決し、二人は窓に、静かに寄り添い、鍵を開けた。 だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだぅんっ 異様な音がして、玄関の戸は砕かれた。兄は、いや、兄だったものは、ゆっくりと中に入ってくる。玄関に隣接した居間。その窓にぴったりと身を寄せた母子。べたり、と足音がする。 べたり…………べたり………………べたり…………………… それは、二人を見つけるなり、 「何や、おったんか。おったんなら、出てきてくれや」 片方の口の端を持ち上げ、笑った。歪んだ笑み。兄ならば、そんな笑みを浮かべない。もっと、屈託のない笑みを、彼ならば浮かべる。 べたり……………………べたり………… 畳の上を、靴を履いたままの足が動く。ゆっくりと、二人に迫る。 べたり…………べたり………………べたり……………………………… ぬぅと腕を伸ばし、二人を求める。電灯を背にした兄だったものの顔は、昼間の自衛隊員のように、土気色をしている。 ……べたり その手が奈津たちに届くよりも速く、二人は開け放った窓から外に躍り出た。 「逃げなきゃ……」 だがどこに。逃げ場なんて、どこにもない。自衛隊基地は、八島商店街からずいぶん離れている。午後の時点で、そこはもう壊滅していた。今は、もう、夜。この辺りも……どこに何がいるのか分からない。 「ひ……!」 母の足が、ふいに止まった。彼女の視線の先には、変わり果てた夫がいた。奈津もそれを見た。首を奇妙な方向に曲げ、腹部が大きく開いている。周辺が黒ずんで見えるのは、父の内臓だの血だのが飛び散った痕跡だろう。 がたがたと震える足を、何とか動かし、二人はその場を抜けようとした。 父の死体のすぐ側には、井戸が直結した水道があったはずだった。が、今その姿はなく、ただ大きな穴がぽっかりと、口を開けているだけだった。蛇口が、父のすぐ横に落ちている。コンクリートの塊をつけたまま、黒ずんだ何かをつけたまま。 「つかまえた」 父の死体に我を忘れていた二人は、この言葉で意識を取り戻した。かつて兄だったものが、母の腕をしっかとつかんでいる。叫び声をあげそうになりながら、奈津はもう片方の母の手を握り締め、周囲を見回した。何か、何か母を救えるものはないか。この兄だったものを退けることのできる何かは、ないのか! ふいに奈津の体が横に飛んだ。壊された水道の穴にそのまま落ちる。母の手が、奈津の手を握り締める。深さの分からない穴。深淵の闇が、奈津を支配する。恐怖が、頭と、心と、体を支配する。 「大丈夫やで」 母の声が、頭上からする。 ずるっ ごきぃ べちゃっ 「大丈夫やからな」 ぐちゃ…… ぐちゃ…… じゅぐ…… 嫌な音が、聴覚を研ぎ澄まさせる。生臭い臭いが、嗅覚を麻痺させる。 「お母さんの手、離したらあかんで? 絶対、離したらあかんで?」 見上げたところに、母の笑顔。だが月の光すらない中で、それを確認することは、視覚では無理だった。 「大丈夫。大丈夫やで」 母の声が、だんだん細くなる。 「奈津、大丈夫やで……」 ぐちぃ! 千もの年月が流れたような気がした。気が付くと、奈津は母としっかり手をつないだまま、穴にぶら下がっていた。母の顔は見えない。逆光だからなのか、顔自体がもうないからなのか、奈津には分からなかった。分かったのは、今が朝であるということだけだった。 ひんやりとした空気が、奈津の体を包む。奈津を握り締めた手は、もう冷たく固まっていた。すべての感覚を研ぎ澄ます。近くに動くものの気配はない。奈津は、母の手を離さないように、穴の、土のむき出しになっている壁を登った。 程なくして、奈津は穴から外に出た。鳥の一羽も見えない朝は、ひどく静かだった。彼女の傍らには、かつてそれが生きていたとは思えないものが、転がっていた。朝日を浴び、二つの体は、てらてらとその内包物を見せていた。 奈津は、その二つの体を、むき出しにされた、空っぽの腹部を眺めた。 「…………お父さん………………お母さん……………………………………お兄ちゃん…………」 奈津は、その場に座り込んだまま、意識を手放した。これが、悪い夢でありますように。どうか、夢でありますように……………… 「奈津、起き」 「ん……」 「ほら、起きって。布団干すさかい、早よどきや」 「むー……、布団なんか、明日干したらええやんか……」 「ほなら明日あんた干してくれるんか?」 「今お願いします」 「ほな、どき」 目をこすりながら、奈津は起き上がり、布団を母に任せる。そのまま洗面台まで行き、顔を洗う。井戸水は、夏は冷たくて気持ちが良い。一気に目を覚ました奈津は、居間の方を見た。時計は十時をまわったところで、兄が子どもを連れて遊びに来ていた。 「何やお前、まだ寝とったんか。こいつなんか、朝は五時起きやぞ? 見習え」 子どもの頭を軽く小突きながら、兄は笑って言った。 「うっさいなぁ、昨日映画見ててん」 パジャマ姿のまま、兄の近くに座る。父は孫を見て目を細めていた。 そこへ布団を干し終えた母が戻ってきた。 「奈津、明日あたりにな、姉ちゃんら帰ってくるって」 「あ、ほんま? 嬉しいわ」 姉ちゃん帰ってきたら、旦那さんと遊ぼう。友達にゲームソフト貸しっぱなしやったな。今日、これから取り返しに行こう。そんで、そんで…… 奈津は目を覚ました。あまりにも辛い夢だった。真っ白なシーツが、青い空によく映えて……孫と戯れたがる父がいて、その孫は私にはちっともなつかなくて…………そんな、当たり前の日常。ずっと、ずっと続くと信じていた日常。 ごろりと寝返りをうつ。奈津は自分が保護されたときのことを思い出した。 真っ青な空に、真っ白な服を全身にまとった人間が奈津に声をかけた。 「Is it safe?」 何を言っているか分からなかった。とりあえず、頷いておいた。白い防護服を着た人間は、やはり頷いて、奈津を立たせると、道に停めてあったジープに乗せた。 「Is not a survivor in others?」 「It doesn't seem to be here」 「So」 運転席にいた者との短い会話の後、ジープは走り出した。ジープは幌の付いたものだったが、その隙間から、外がうかがえた。 壊された家々が見えた。白い人間たちが動いていた。つんと鼻につく臭いが嫌だった。が、すぐに慣れた。空が、青いなぁ。奈津はそんなことを考えながら、山のふもとに立てられた施設に収容された。 施設には、真っ白な建物がいくつか並んでいた。その建物はいずれも白く、中もまた、真っ白だった。辺りを見回す気力もなく、促されるままに奈津は椅子に座った。 面接を受けている気分だった。部屋には、自分一人と、向き合う三人の男たち。いずれも日本人ではなかった。 「Can you speak English?」 何を言っているのか分からず、奈津は首をかしげた。それよりも、お腹が空いて、今にも倒れそうだった。人間、壮絶な経験をしても、お腹だけはしっかりと空くんだななどと考えながら。 「英語ハ、話せますカ?」 今度は、たどたどしい日本語でたずねてきた。奈津は首を横に振った。生まれてこの方、英語が好きだった覚えなど、一度たりともない。 「あなたのAddressを教えてくれますカ?」 「アドレス……?」 「Yes」 「ケータイ?」 「……ケータイ……? No、住んデいる場所でス。それと、お父さんトカお母さんの職業も」 「ああ、そうか……。住所は……」 いくつかの質問に答え終わり、奈津は奈津にあてがわれた部屋へと案内された。途中、何人かの日本人を見た。消沈している者もいれば、気の触れたような者もいる。ただ泣いているだけの者もいる。だが、そこに知った顔はなかった。視線をゆっくりと自分の足元に移し、奈津は自分を案内してくれている者の背中を追った。 ドアを開けると、そこも真っ白な空間だった。窓は高い位置に小さなものがあるきりで、簡易のパイプベッドが置かれていた。 案内をしてきた者は、早々に部屋から立ち去り、ドアがばたんと閉められた。奈津はしばらく、じっとそのドアを、首をめぐらして見ていた。それからふらふらとベッドに倒れこみ、今に至るのである。 「残酷な夢」 ぽつりと声に出した。声に出したところで、誰が聞いているわけでもない。お腹、空いた……。 目を覚まし、何をして良いのかも分からないまま、夜を迎えた。部屋へと案内してくれた者とは違う者が、食事を持ってきた。硬いパンと、味の薄い具の小さいスープ。食べる気にもならなかったが、腹だけは空いていた。奈津はのろのろとそれらを口に運んだ。パンが口の中の水分を奪う。仕方なくスープにパンを浸す。奈津は、このような食べ方を嫌うが、背に腹はかえられない。そうしてすべて平らげたあと、食器を下げるためにまた人が来た。奈津には何も話しかけず、すぐに退室した。奈津は、ベッドに横たわった。目が覚めたら、いつもみたいにお母さんがいて、お父さんがいて。そんな絶望にも等しい希望を抱いて。 目を覚ましたのと、食事の運ばれてきたのが同時だった。寝起きのまま、もそもそと食事をとる。朝は、ご飯に味噌汁だろが。やっと、奈津は冷静を保てるようになった。部屋の中をじっくりと観察する。だが、観察するほどの部屋ではない。すぐに外への音に耳を澄ます。 足音が近づき、ドアが開けられる。鍵は、どうもかかっていないようだった。 「Go to the outside」 促されるままに、奈津は部屋から出た。今日も良い天気だ。布団を干したくなる。案内人の背中を見る。広くて大きい。ここに来てから、日本人以外では男しか見ていない。そもそも、日本人すらしっかり認めたわけではない。男も女も、よく分からなかった。 「It is this」 ドアが開かれ、二人は中へと入った。 説明がなくても分かる。ここは病院みたいな場所だ。消毒液の臭いがする。白衣にマスクの人間がいる。奈津を案内してきた者が、白衣に話しかける。白衣は、分かったとでも言うように頷いた。案内人は奈津の横を通り抜け、外へ出て行った。代わりに白衣が、奈津の手を引いた。彼女は冷静ではあったが、逆らうことはしなかった。自分がどういう状況に置かれているのか分からないまま暴れたりするのは、得策ではない。何より、奈津にはそんな体力などなかった。 治療用の椅子に座らされる。歯医者に置いてあるような椅子。袖をたくし上げられ、腕がむき出しになる。そこへチューブが巻きつけられる。太めの針が奈津の腕に突き立つ。シュー……という音がして、血液が採られる。何本か採った後、脳波だの心音だのといろいろな検査が奈津を待ち受けていた。奈津と、検査員との間に、会話はいっさいなかった。 昼を回っても、検査は終わらなかった。外国人に囲まれたままの奈津は、自分がヒトであるということを、あわや忘れそうになった。そのたびに自分を叱咤し、検査に臨んだ。早く、ここから出たい。 ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ…… ざざ、ざーーー…… ぱしぃ……! 検査中の音は、奈津にとって楽しいものではなかった。かと言って、苦痛でもなかった。 すべての検査が終わるころには、もう日が傾いていた。食事とともに部屋に押し込められ、奈津はスプーンをかじった。 「家に、帰りたいな」 家がどうなっているのか分からなかった。両親や兄が、あの後どうなったのかも。それでも奈津は、家に帰りたかった。 奈津が白い建物に収容されて数日が経過した。奈津は部屋を出て、敷地内の色々な場所へと顔を覗かせた。 色々と見て回って気づいたことだが、奈津の部屋は独立している。それはプレハブがちょこんと建っているようなものだった。他は、やはり白い建物で、三人から六人くらいが雑魚寝をするような、下宿みたいなもので、しかもその建物は、たった一つのみだった。 何で私だけ待遇が違うんやろ。 強い日差しの下を、奈津は歩いていた。 父さんと母さんのお葬式、どないしたらええねんやろ。ああ、あと兄ちゃんな。兄ちゃんの嫁さんとか、どないなったんやろ……。姉ちゃん、迎え来てくれんかな…… 木陰を見つけ、奈津はそこに座った。木の下から空を見上げると、葉と葉の間からの日の光が、とてもきれいだった。 「なっちゃん」 どれくらいそうしていたのか。ほんの一瞬だったのかもしれない。 「なっちゃんやろ?」 声のする方を見る。見覚えのあるようなないような顔が、こちらに向かってくる。 「俺な、なっちゃんの兄ちゃんの友達の、友野宏いうんやけど」 「あ、名前だけ覚えとる」 「そやろなあ。最後に会うたんて、なっちゃんが小学生んときやもんなあ」 もう十年も前になるわと、友野は笑った。 「友野さんは、何でここにおるん?」 「なっちゃんと一緒や。生き残ったさかい、ここにおる」 「……何があったん?」 「さあなあ。俺も知らん。何やいきなり周りのもん倒れたか思たら、がばって起き上がって、襲いかかってくるんやもん。必死で逃げたって」 悲しそうに友野は言った。 「うちもやわ」 奈津は、周りに人のいないことを確認し、小声で話した。 「自衛隊さんの基地で、爆発が起こってん。その前に、『小麦粉』とか言うて、アメリカが自衛隊さんとこに何かを運び入れてん。たぶん、それが爆発したんやと思う。爆発あったとき、私、すぐ近くおったもん。自衛隊さんの格好した何かが、塀よじ登って国道出てきて、トラックの運転手の首ちぎったん、しっかり見てもた」 そこまで一気に話し、奈津は友野の様子を伺った。友野の顔は青ざめていた。 「そっから夜んなって、兄ちゃんが家に来てん。そんとき、もう八島が全滅しとんはうちの父さんが言うてたから知っとんねんけどな。兄ちゃんが、父さんと母さんを、………………殺してん」 あの光景を思い出し、奈津は目を伏せた。忘れたくても忘れられない。両親の殺される様を、直接見たわけではない。だが、事実は明白である。 「……それじゃあ、何やってか、アメリカの持ってきた『小麦粉』が悪いっつーことか?」 ややあって、友野が口を開いた。念を押すような、押し殺した声。 「実際にそうと決まったわけやないよ。……せやけど…………」 重い沈黙が、二人の間に下りる。相変わらず、鳥の鳴き声一つしない。こんなに山が近いのに、蚊すらいない。 結局、その後は二人とも黙り込んでしまい、部屋に戻ってしまった。友野も、ルームメイトのいる部屋へ戻った。 夜間、外出は、たとえ同じ建物の隣の部屋であっても、許されなかった。部屋にはもちろん電話などなく、同じ部屋の者との会話が唯一の娯楽だった。奈津には、そんなものはいっさい与えられていなかったが。 さらに数日が経ち、奈津はあの木陰に一人、座っていた。友野とは、あれから一度も顔を合わせていない。彼が下宿棟のどこにいるのかも、奈津は知らなかった。 奈津は歌を歌った。知っている限りの歌を歌った。最近の曲から歌謡曲まで。洋楽から童謡まで。咽喉が枯れるかと思った。それでも、何もしないよりましだった。自分の声だけでも、聞けるだけありがたいと思った。 「なっちゃん」 ふいに声が降ってきた。歌うことに集中していて、奈津は人が近づいてくるのが分からなかった。 「友野さん。お久しです」 「うん、久しぶり」 友野は、奈津の隣に腰を下ろした。 「こないだの話な、隙見て、何人かに話してん」 奈津は友野を凝視した。 「何人かっつっても、正気保っとるやつごっつ少ないんやけどな。生きとるやつもごっつ少ないけど」 友野は奈津の目を見た。 「やっぱり、何人かは知っとるみたいやった」 「知っとるって、何を?」 「その、『小麦粉』のこと」 「あれ、何なん」 「さあ、そこまでは分からん。せやけど、海自におった人間も生き残っとってな、ちょっと話聞けたわ。言うても、そんな上の方の人間違て、偶然ちらっとそれを見ただけらしいけど。んで、どうも『小麦粉』の入っとった箱に、時限爆弾みたいなんついとって、ドカン。そしたら、あとはなっちゃんも知っとるとおりや」 奈津は身震いした。アメリカは、この街でそんなことを計画していた…………日本政府も公認で……。ぎゅっと自分を抱きしめる。 「なっちゃん、何で自分が個室におるか、知っとる?」 「ううん、知らん」 奈津がずっと気にしていたことの一つ。なぜ自分だけ個室を与えられているのか。なぜ自分のその個室だけ、他の建物から離れているのか。 「なっちゃん、お父さんが海上保安庁やろ。やから、もしかしたら何か聞いとるかもしれん。たぶん、こういう理由やと思う。他のやつと連絡持たれたら困るんとちゃうやろか」 「せやけど、私、今こうやって友野さんと話しとるで?」 「俺、監視の目かいくぐってここ来とるんやわ」 「……私、監視されとるんやね」 「いや、それがなっちゃんは監視されとらんのよ」 「何で?」 「だって、なっちゃん、俺が見るとき、いっつも黙って俯いて、やる気なさそうな顔しとるもん。やる気ない言うか、精神崩壊しとるみたいな。そんなんに話しかけよう思おうやつおらんで。話しかけても、どうせ正気保ってへんやろし」 「ひどい話やな」 「少なくとも、俺の周りにおるやつらはそう思てた。それに、ここの施設の人間もそう思てるやろ。俺もなっちゃんやて気づくまで、そう思てたし」 友野は続ける。 「なっちゃんやて気づいて、友達の妹やて気づいたから、試しに声かけてみたんやで、俺。俺ら見張っとるやつら出し抜いてさあ」 木陰から漏れる太陽は、二人を静かに照らす。そよ風が葉をざわつかせる。 「ほんなら、正気保っとるし。一見精神障害起こしてそうやのに」 「ひどいな」 「文句言わんとってや。ここの人間も、俺らも、同じこと思てる。それに、女の子なんか、なっちゃんしか俺ら見たことない。女の子いうか、女性全般」 そこで夕方の時報が鳴り響き、二人は別々に部屋へと戻り、何食わぬ顔で夕食をとった。 暑かった夏が終わりを告げ、肌寒い秋がそれにとって変わろうといていた。 「姉ちゃん、元気やろか」 敷地内を、だるそうに奈津は歩く。監視者がいないと分かれば、こちらのものである。昼間は思い切り歩き回っている。たまに友野や、その仲間とコンタクトをとり、嫌いな英語も、何とか身につけていった。そうすることにより、奈津はさまざまな情報を手に入れることができた。他にも、コンピューターのある建物がどこか、警備の交代時間はいつか、この施設の首脳部はどこかなど、奈津や友野たちが協力して集めた。それらを、必死で頭に叩き込んだ。監視者も、今はまだ安心している。それがいつ警戒に変わるか。時間との勝負である。奈津が色々な場所に出没していることは、彼らもよく知っている。会話を聞かれているのも知っている。奈津が英語を理解することなど、できないということを前提にしている。ばれないように、なるべく何にも興味を持っていないように見せかけるのに、奈津は神経をすり減らしていた。奈津の疲労は、相当なものだっただろう。それでも、毎週金曜日の午後に行われる健康診断では、いささかの変化も出さなかった。精神鑑定の方も、『不安定』の数値をたたき出していた。人間、極限まで追い込まれると、体調や精神まで騙せるんだと、ひそかに奈津は笑う。嘲るように。 ある深夜。虫の声もまだ戻らない新月の夜。奈津は静かに部屋を出た。見回りが来るまで、まだ時間がある。コンピューターのある部屋に忍び込む。建物の入り口さえパスしてしまえば、中はもう自由である。急いでコンピューターを起動させ、サーバーに接続する。そのまま、友野の仲間に教わったとおりに次々とセキュリティを看破し、通常の、奈津の知っているインターネットの世界へとたどり着いた。 まずこの舞鶴が、世間にどう知らされているのかを検索する。まさか、『小麦粉の爆発のため壊滅』などと出ているはずはない。新聞社の情報を見るのが手っ取り早い。奈津は過去のデータを次々と呼び出した。 そこにあったのは、『北朝鮮からミサイル飛来』という見出しだった。それによると、どうも舞鶴は、『北朝鮮からの細菌ミサイルが市街地を直撃し、市民の生存は絶望的。陸上自衛隊が、同市への道を完全封鎖し、細菌が市外へ出ないよう警備している。アメリカから専門家を呼び、細菌について調査をし、生存者の確保を急いでいる』らしかった。ばかばかしい。何が北朝鮮か。 現在の様子はといえば、『いまだ復興の兆し見えず』である。『細菌に汚染された京都府舞鶴市は、生存者が数名いるものの、まだ身元は確認されておらず、細菌の後遺症に悩まされている』そうだ。誰が死んで、誰が生き残っているのかということは、一切公開されていないらしい。 奈津は、その夜はそのまま引き上げた。明日は、このことを友野たちに報告しなければならない。じきに見回りが来る。するりと建物から抜け出し、見回りが奈津の部屋の周辺に回って来る前にベッドに戻った。 友野が奈津のもとへ着いたのは、夕方に近かった。あと少しで、全員部屋に戻らねばならない。奈津は手短に報告をした。世間に公表されている舞鶴の、過去現在の状況、世間の動きなど、およそこの件に関係のありそうなものを。 奈津の報告が終わるや否や、時報が鳴った。友野は先に戻り、奈津は遅れて部屋に戻った。奈津の奇行は、今のところ、まだマークされていない。昨夜のコンピューターからも、自分の痕跡は消した。本当、人間やろうと思えば何だってできるんだなあ。奈津はそう思わずには、いられなかった。 風が大きく吹いた。 気がつけば、奈津はもうすでに誕生日を迎えていたのだ。そのことに気づいたのは、誕生日から一か月ほど経った頃だった。 「大学の友達、元気かな……」 奈津が自分のウェブサイトを作るのに協力してくれた友人や、奈津とよく遊びに行ってくれる友人、奈津がしょっちゅう遊びに行く先輩……。何もかもが、懐かしかった。教授は元気だろうか。あの授業、受けたかったな……。思い出せば出すほど、奈津はこの辛い現実を、今すぐ打破したい衝動に駆られた。しかし。 そんなことをしては、友野たちに迷惑をかける。それだけじゃない。自分の身さえ危ない。みんなで無事にここから出ると誓った。何が何でも。そのために、今みんなで秘密裏に動いているんじゃないか。奈津は、自分の頬をたたいた。じんじんと痛む。よし、何とかなる。今までだって、何とかしようとして、何とかしてきたんだ。今度のことも、何とかするんだ。 敷地内の見取り図、見回りの時間、舞鶴の道路状況など、ほぼすべての情報を集め終わるころ、奈津は施設長に呼び出された。 友野たちが心配する中、奈津はいつもどおり、精気を感じさせない様子で案内人について行った。 「近頃、奇妙な行動が目立つのだが……?」 「……奇妙?」 「ああ、至るところに君がいる」 「……そんなん、前からやん」 「そうだったな。だが、この間、コンピューター棟に、髪が落ちていてね」 「……そら、人が通る場所やったら嫌でも落ちるやろ」 施設長は、明らかに苛立っている。まずいなと、奈津は思った。 「君の髪じゃないか?」 「……そうなんちゃう?」 施設長は、ため息をついた。奈津は俯いた。 「どうして君の髪が落ちている?」 「…………」 「終業時間には、きれいに掃除をして棟から出るという決まりがある。翌朝一番に、君の髪が落ちていた」 「………………」 「これは、立ち入り禁止時間に君がそこにいたという事実だ! 君、精神異常を……」 奈津は笑い出した。と、すぐに泣き出した。そして暴れだした。周囲の者が押さえにかかるが、一向に止まらない。しばらくすると、また大人しくなり、泣き出した。 その後も、施設長が何を言っても、何も答えず、奈津は自室へ戻された。しばらくは室内に監視者が置かれたが、奈津は意に介さず、突然歌いだしたり、枕を壁に投げつけたりしていた。まるでそこに誰かがいるかのように。時々、「母さん、母さん、父さんがね、」などと話しかけるのだ。 施設長は、上層部に提出する書類に向かい、一人考えていた。奈津は、日に何度か狂っている時間がある。自分もそれは承知だ。突然怒り出したかと思えば、泣き出す。歌を歌っているかと思えば、いもしない者と話をする。果たしてそれが計算づくなのか、本当に精神異常なのか。施設長たちは図りかねていた。 翌日になり、施設長が奈津の部屋へやってきた。今日の奈津は、朝からずっと歌を歌い続けていた。初期のころに比べると、格段に声が良くなっている。もう声が枯れるということはないだろう。 突然、奈津は歌うのをやめた。おもむろに外に向かう。施設長もそれに続く。施設の出入り口の近くで、奈津はしゃがみ込んだ。そこには、小さな花が咲いているのだ。奈津はそれを手折ることなく、じっと見つめて、しきりに話しかけている。きゃらきゃらと笑う奈津を、施設長はじっと見ていた。 まもなく奈津は立ち上がった。先ほどとは打って変わり、精気を感じられない。彼女はそのままゆっくりと部屋に戻り、ベッドの傍に座り込み、動かなくなってしまった。夕方になるまで、施設長は奈津を観察していた。 施設長は自室に戻るなり、奈津の監視者を一人呼んだ。 「奈津の行動は、どうだ。今日のようにああなのか」 「はい。今日は比較的行動範囲は狭かったですが……大体こんなものです。遠出をしたとしても、施設の外れにある大木の下だけです。そこで歌ったり、木に話しかけたりしているだけです」 監視者の言葉を聴きながら、施設長は考えていた。 ――あの娘は、本当に狂っているのか…… 彼は、ゆっくりと首を横に振った。 ――まだ、勉強をしたり、恋をしたり、そういう大切な時期だというのに…… 彼は、大きなため息を一つつくと、咽喉の奥で低く笑った。自嘲の影が、顔に降りる。 ――彼女の人生を狂わせた者が、何を心配すると言うのか…… 奈津が厳しい監視から逃れたのは、それから一週間経ってからだった。その間、奈津は友野たちと連絡を取れずにいた。友野たちも、奈津の状況を知っていたため、何も言わずに施設が彼らに与えた仕事を、各々でこなしていた。仕事というのは、単に施設の美化である。建物内の掃除、施設内の草引きなど、少ないながら、労働としては十分だった。そんな中で、奈津は歌を歌うなどし、友野たちにその姿を見せてはいた。監視者の前で友野たちに話しかけることなどは、不可能に近い。 秋が過ぎようとしたある日のことである。奈津はいつもの木陰で一人座っていた。木の葉があと少しで落ちきる。ぼうとしてそれを見ていた。施設長を交えた一件以来、厳しさはないものの、監視者たちは、常に奈津を見張るようになっていた。夜も、彼女の部屋の前に待機するのだ。奈津に、自由はなくなったかのように見えた。 ――望みは、捨てたらあかん 奈津は待っていた。友野たちの準備が整うのを。自由を勝ち取るため、それは必要な時間だった。 「あしたなんて来ない来ない。自分が歩かない限り、幸せだって来ない来ない」 奈津は歌っていた。知っている歌も歌い飽き、自作の歌を歌っていた。思い出したかのように自分の作った歌を歌うのだ。そうでなければ、自分が正常であることを悟られてしまう。奈津は、辛抱強く待った。 雪が、降ろうか降るまいかと悩む時期になった。施設からの差し入れマフラーを首に、奈津は自室の入り口に立っていた。監視者の隣に、ただ空を見上げて。監視者は居心地がさぞ悪かったことであろう。 「母さん、もう雪降るな。また雪かきせんといかんねやろ? 私、今年はせえへんで」 マフラーの端を指で遊びながら続ける。 「父さんも腰あんま良うないんやろ? 兄ちゃん呼ぼうや。ほんなら百人力やん。それか、姉ちゃんの旦那さん。雪、まだ珍しかろう? 南の人やし」 けたけたと笑う。 「かまくら作れるかな。近所の子らと一緒に。中入って、鍋すんねん鍋。闇鍋や」 うっとりと奈津は話し続ける。 「ドッグフード入れたやつはシバキで、キャットフードはセーフ」 おもむろにマフラーを外し、 「母さん、寒かろ?」 と、眼前に差し出した。奈津の正面には、誰もいない。 「受け取りいな。寒いやろに。我慢したらあかんで」 監視者は、自分の足が動くのを感じた。感じたからといって、止められるわけもない。一目散に走り出した。 「施設長!」 ノックもなしに、部屋に飛び込んだ。 「何だ、何があったんだ!」 倒れこむように施設長の前に手を着くと、 「自分は、もう耐えられません! 我々があんなものを持ち込まなければ……!! あんなものを、持ち込まなければ…………!!」 悲痛な叫びは、やがて嗚咽にとって変えられた。 「…………」 「お願いです、もうここから帰してください……お願いです……。もうあの女のいない場所に、行かせてください……!」 奈津の監視者だった者の切なる願いは、叶えられた。本国においても、彼の姿を見た者は誰もなかった。 「幸寺、奈津……」 施設長は、静かにつぶやいた。精神に異常をきたした女。子どものように、泣いたり怒ったり歌ったり。彼とても、同じ年頃の娘が国にいる。奈津を見ると、無性に娘に会いたくなる。それでも、仕事は仕事と区別をつけてきた。 「そろそろ、潮時か……」 奈津が、コンピューター棟に何度目かの侵入をしていた。近頃、施設の人間の動きがおかしい。奈津を、哀れむような、蔑むような目で見る。端末から施設に関する情報を引き出す。そこには、アメリカ軍と日本政府の公式文書と思しきもののデータがあった。 奈津は、それらに一通り目を通した後、くすりと笑った。 私、もうすぐ死ぬんや。 えも言われない笑いが、体の底から湧き上がってくる。こんなに可笑しいと思ったことは、生まれて初めてかもしれない。 今日も今日とて歌を歌い、泣いてみたり怒ってみたり、話しかけてみたり、奈津は忙しかった。数日前から監視者が変わったが、奈津には関係なかった。交流をするわけでもない。置物のようにそこに彼らはいるだけなのだから。収容者である自分と、視線すら合わせないのだから。奈津は虚空を眺め、幼い子どものように、満面の笑みを見せた。 ――お父さん ぱくぱくと口を開閉させる。 ――お母さん 腕をばたつかせる。 ――お兄ちゃん 軽く跳ぶ。 ――お姉ちゃん しゃがみ込む。 ――みんな 立ち上がる。 ――大好き 一連の動作をくるくると繰り返す。何が楽しいのか。監視者が冷たい視線を投げる。奈津は、いたって楽しそうに動いている。遠くから、友野たちが心配そうにその様子を眺めていた。 ――死ぬって、どういうことだと思う? 奈津は自問した。 ――誰からも忘れ去られること 奈津は自答した。 監視者に見えないように、にやりと口元を綻ばす。奈津は歌った。 「素敵な街へ行こう。素敵な街へ行こう。そこはあんまり素晴らしすぎて、誰も戻ってこない場所。私も行こう、素敵な街へ」 大きな声だった。かつてないほどに。 奈津は、満足したように、にっこり笑って室内へ戻った。そしてベッドに上がり、布団をかぶって眠ってしまった。 死人からメールが届くというのは、なかなか不思議なものである。まだ死んでいないとしても、死んだと聞かされた者からのメールは、背筋が凍る。 『やほう、久しぶり。学校の方、どう? 楽しい? 部活はどうなってる? 私、もう暇でさ。毎日が日曜ってのも、けっこうアレだわ。 まあ前書きは良いとして、お願いがあるのです。 このメール、添付ファイルあるっしょ? それをね、私のサイトに上げてほしいねんよ。アドレスとかパスワードとかはメールの下の方に付けとくし。んで、このファイルは、明後日の夜にお願いします。明後日の夜にアップして。そしたら、色んなとこにそのデータが回るようになってるから。んで、アップがすむまで、内容は見ないよーに。お願い。頼むわ。 ほんじゃあ、ばいば〜い。 追記。 このメールに返事は出さんといてな。出してもアドレス消滅するから意味ないし。』 深夜にパソコンに向かっていたら、こんなメールが届いた。文面にあるように添付ファイルもある。本当に本人なのか。奈津なのだろうか。すぐさま奈津のケータイに電話をかけてみる。繋がらない。ケータイメールも返ってくる。一抹の不安を抱えながら、奈津の友人はパソコンを閉じた。明後日の夜になれば、全部分かるから。自分に、そう言い聞かせて。 奈津は、いつもどおりだった。ぺろりと朝食を平らげ、歌を歌っていた。ここのところ、友野たちと連絡を取ってないな。今からでも会いに行ってこようかな。 ベッドからぴょんと飛び降り、子どものように走り出した。部屋のドアを勢いよく開け、足取りも軽く、一目散に友野たちの作業場所へ走った。奈津の監視者も走る。 奈津は、友野たちの邪魔になるように走った。すれ違いざまに言葉を残して。そのまま、また風のように走り、今度は施設長の部屋へ飛び込んだ。施設長の周りをぐるぐると鬼ごっこをするように走り回り、また外へ。監視者の周囲を回ったり、夏に通った大木の辺りを駆け抜け、……奈津は自室に戻り、ばったりと眠ってしまった。 友野たちは、平静を装いながらも、自身を失いかけていた。 ――明日、さよならだよ。みんなは、絶対助かるから。……ごめん? 夢を見た。そこには、父がいて、母がいて、兄がいた。兄の嫁や息子がいた。楽しそうに笑っていた。高校を卒業した後、舞鶴に残った友人たちもいた。 あ、あの子は私をよくいじめてた人や。 あ、あっちは、懐かしい! 小学生のときの担任やん。 あ、近所のおばちゃんやん。 あ、中学のときの先輩や。 あ、こないだバイト中に怒鳴り込んできた人や。 あ、本屋の店長さんや。顔覚えられてんのよな。 あ、文房具屋さんのおっちゃんもおるわ。 あ、嫌いな先生とかおるし……。 あ、あの子は幼稚園時よう遊んだ覚えがある。 あ、あの人、もしかして技術の先生やった人? 心なしか、増毛しとる! あ、前に自転車で川の向こう側とこっち側で競争した子やん。 あ、あのお巡りさんに、怒られた覚えがある! あ、高校ん時の先生やわ。あいさつ行っとこか。 あ、………… 奈津は、目を覚ました。不思議と、心が落ち着いている。自分の心臓の音が聞こえる。それほど、周囲は静かだった。雪の降る前兆か。 奈津は部屋を一歩出た。胸いっぱいに空気を吸い込み、 「ありがとうね」 と言った。監視者が、こちらに向かってくる。 「健康診断だ。この間の結果が、あまり芳しくなかった」 いまだ片言の日本語であるが、意味は通じた。奈津はにこりと笑うと、監視者について行った。 友野たちが、自分たちの棟の窓から、こちらを見ている。奈津は彼らの方を見ない。友野が窓をたたく。仲間たちが何か叫ぶ。奈津は、意に介さなかった。 通された場所は、広くもなく、狭くもなかった。奈津は部屋の中央に立った。 奈津の前と右の壁に、ずらりと兵が並ぶ。ライフルを構えている。左には、マジックミラーが。外から中は丸見えだろう。今頃、友野たちがここに向かっていることだろう。 施設長が口を開いた。 「Though it was disappointing, it was decided that it had you die.Even if it says, though it won't understand(残念だが、君には死んでもらうことになったよ。言っても、分からないだろうけれどね)」 奈津は笑った。いつものように、無邪気を振舞ってはいない。 「A reason to kill it because a town was made selfish and it was inconveniently?(街を好き勝手して、都合悪くなったから殺すわけ?)」 施設長を筆頭にして、室内にいた者が騒然となった。 「It is good, but well, such a situation is forgiven. Anything is wrong with you as well though anything is wrong with Japan as well. Destruction of evidence? It is excellent. I know completely. It is not only I. world all(よくもまあそんな勝手が許されるね。日本もどうかしてるけど、あんたたちもどうかしてるよ。証拠隠滅? 上等だよ。私は、全部知ってる。私だけじゃない。世界がすべてを知ってるんだから)」 施設長は、明らかに青ざめた。そして赤くなった。奈津は、高らかに笑った。 「Fire!!!!!」 頭蓋骨に直接叩き込まれるような轟音が響き、奈津は紙切れのようにその場に舞った。だが、足はまだしっかりと床を踏んでいる。 「I don't die(私は死なないよ)」 第二射撃が、奈津を襲う。生きているのが不思議なほどの損傷を受けてなお、彼女は立っていた。 「It is a un-dead person……(ゾンビだ……)」 奈津はさらに笑った。 「Who did to such me! They are you!!(こんな私に誰がした! 他ならぬ、あんたたちじゃないか!!)」 第三射撃が奈津を見舞う。高らかに、奈津は言った。 「I don't die! Until it disappears from the memory of this world, I don't die. that there was a human being of me!!(私は死なない! 私たちという人間がいたことを、この世の記憶から消え去るまで、私は死なない!!)」 最後の射撃が、奈津の体を塵とした。もはや原形すらとどめていない。血も流れない。どこが頭で、どこが足なのかすら、分からない。 奈津は、ごみとして、焼却された。 数年が経った。奈津の残したデータファイルが、友人の手により、世界の隅々にまで行き渡ってから。 友野たちは、あれからすぐに救助され、事なきを得た。施設は、データをすべて押収された後、焼き払われた。街は、復興を目指して、今も頑張っている。生きる屍となった街の者たちは、アメリカ軍により、すでにどこにもいなかった。自衛隊基地も、商店街も、きれいな更地になっていた。 山のふもと、施設のあった場所に、記念碑文が建てられていた。 『私は死なない。私たちという人間がいたことを、この世の記憶から消え去るまで、私は死なない。』 たくさんの花束に囲まれ、記念碑文は佇んでいた。 友野宏を含むあの事件を生き残った者は、肉体にも精神にも重い障害を残し、いずれも夭逝した。そのいずれもが、「私は死なない」と言い残したという。穏やかな笑みを浮かべ、奈津の名を呼び、静かに息を引き取ったという。 奈津の残した言葉は世界中に広まり、平和と人権の合言葉となった。 私は、死なない。この世のすべての記憶から私が消えない限り、私は死なない。 街は、復興を目指し、今日も頑張っている。 世界は、平和を目指し、今日も頑張っている。 私は、死なない。この世のすべての記憶から私が消えない限り、私は死なない…… |
※※※アトガキ 元ネタは、私の見た夢です。 涙もろい私は、書いてる最中や推敲中に、泣いてました。 この程度なら、R指定とかはいらないと思うのですが。 どうなんでしょう。 改稿をしました。 いらない箇所をいくつかばっさり切りました。 これでたぶん、もう誤字脱字以外では改稿しません。 |